白石城の戦いの舞台となったのは、現在の宮城県白石市。旧地名は「陸奥国刈田郡」(むつのくにかったぐん)で、中世のころは刈田氏(のちの白石氏)の居城でした。築城の詳細についてはよく分かっておらず、刈田氏は「後三年の役」(ごさんねんのえき)の戦功により、この城を与えられたと言われています。

伊達政宗
白石城の戦いに大きくかかわったのが、戦国武将として知られる「伊達政宗」です。伊達政宗が生まれたときは、日本中で戦が繰り広げられ、1581年(天正9年)、まだ15歳であった伊達政宗も、初の戦へ赴きました。
その翌年には権力者であった「織田信長」が死去し、その家臣の「豊臣秀吉」が天下を取り、伊達家のある東北においても、「最上氏」や「相馬氏」、「葛西氏」など、いくつかの有力な戦国大名がひしめき合い、まさに「戦国の世」と言える状態でした。
そんな中、伊達政宗の父である「伊達輝宗」が、「二本松城」(現在の福島県二本松市)城主である「畠山義継」(はたけやまよしつぐ)によって殺害されます。その敵討ちに向かった伊達政宗は、畠山義継に見事勝利して二本松城を手に入れ、その後も東北南部で大きく勢力を伸ばしていきました。

上杉景勝
白石城があった「刈田郡」という場所は、もともと1589年(天正17年)の時点では伊達家の領地でした。しかし、1590年(天正18年)に豊臣秀吉の臣下と確執を起こし、一揆を煽ったという疑念をかけられた伊達政宗は、白石城を含むいくつかの領地を没収されてしまいます。
これによって白石城は、1598年(慶長3年)「上杉景勝」の領するところとなり、その城代として、上杉景勝の家臣であった「甘糟景継」(あまかすかげつぐ)が治めました。
そのような中、豊臣秀吉の没後、五大老筆頭の「徳川家康」と五奉行の「石田三成」らの間で覇権争いが激しくなり、徳川家康は、伊達家などと縁戚関係を結ぶなどして、徐々に政権内部での影響力を強めていきます。

徳川家康
さらに徳川家康は、亡き豊臣秀吉に五大老として厚遇され、会津120万石の領土を持っていた上杉景勝を傘下に入れようと、再三上洛を促します。
しかし、上杉景勝がこれに応じなかったことから、徳川家康は伊達政宗に対し、かつて豊臣秀吉によって奪われた白石城(伊達家旧領地)の攻略話を持ち掛けます。伊達政宗にとっても、白石城を含む旧領地を取り戻す好機でした。
伏見城で徳川家康から会津討伐を命じられた伊達政宗は、自国に戻るとすぐさま刈田郡に出兵し、白石城の戦いが始まります。このとき、白石城の守備を任されていたのは、城主・甘糟景継の甥である「登坂勝乃」(とさかかつのり)でした。
かつては伊達家所有であった白石城。内部はもとより周囲の地形に至るまで熟知していた伊達政宗は、白石城が一望できる小高い丘に陣を敷いて的確に指示を発し、戦に先立って白石城周辺の「七ヶ宿」(しちがしゅく)や「越河」(こすごう)、また米沢や福島に続く道をすべて抑えます。これによって白石城を完全に孤立させ、援軍が流入するのを阻止しました。
さらに、城下から城郭、そして三の丸に火を放ち、白石城を炎上させます。上杉軍も善戦しますが、伊達政宗の周到な攻めには耐えられず、わずか1日のうちに本丸以外のほとんどが陥落。この状況を見て勝機がないと判断した登坂勝乃は、ついに降伏を決意したのです。
白石城内では、過去に伊達政宗によって主君と父親を殺された「鹿子田右衛門」(かのこだうえもん)が降伏に猛反対し、徹底抗戦を主張しましたが、登坂勝乃はこれを殺害し、城攻め開始の翌日に伊達政宗に降伏することとなりました。
白石城の奪還に見事成功した伊達政宗は、叔父である「石川昭光」に城の守備を任せ、自らは北目城へと退陣。一方、上杉方では、家老「直江兼続」(なおえかねつぐ)が白石城を取り戻すべく出兵しましたが、上杉氏に抵抗する百姓や野武士などに阻まれ、失敗に終わりました。
その後、伊達政宗は、自身の居城となる「仙台城」(現在の宮城県仙台市)を新たに築城。白石城は伊達政宗の家臣だった「片倉小十郎景綱」(かたくらこじゅうろうかげつな)の手に渡り、それ以降「片倉氏」の居城となりました。

白石城
白石城は「関ヶ原の戦い」以後、伊達家の重臣・片倉氏が仙台藩の南の要所として守り続けました。伊達政宗の右腕と言われた片倉小十郎景綱によって大改修され、城としての威力をさらに増大させます。
1615年(慶長20年)に江戸幕府は「一国一城令」を公布し、全国の諸大名は居城だけを残し、その他の城は取り壊すよう命じましたが、特別に領国内に2つの城の存続を許された国があります。
その存続を許された城のひとつが白石城です。これは、片倉小十郎景綱が江戸幕府にその力量と功績を認められたことが一因とも言われています。その後、白石城は、江戸時代以降も260年余りにわたってその役割を果たすこととなったのです。
やがて、江戸時代が終焉を迎える1868年(慶応4年・明治元年)、戊辰戦争の際は白石城が「白石列藩会議」の場となり、奥羽越列藩同盟が結成されました。仙台藩が新政府に降伏したあと、1869年(明治2年)白石城は南部氏へ引き渡され、1874年(明治7年)に解体。1900年(明治33年)に城址が「益岡公園」として整備しました。その後、1995年(平成7年)に、現在の白石城が宮城県白石市益岡町に復元され、別名「益岡城」とも呼ばれています。
白石城の最上階にある「三階櫓」と呼ばれる部分は、事実上の「天守」となっています。白石城は、その長い歴史の中で幾度もの修築が行なわれてきましたが、江戸幕府に対する配慮から天守とは呼ばず、「大櫓」(おおやぐら)と称されてきました。

白石城歴史探訪ミュージアム
現在目にすることのできる白石城は、調査データに忠実に従って三階櫓と大手一ノ門・大手二ノ門が精密に再現されています。その他にも、白石城の遺構として、当時の物と思われる土塁が残されています。
現在、白石城は歴史的な観光地として開放されており、JR東北本線「白石駅」から徒歩10分とアクセスも良好。隣接する益岡公園も桜の名所として有名です。
さらに、同公園内にある「白石城歴史探訪ミュージアム」では、白石城の建設技法の展示などが紹介されており、伊達政宗の生きた時代を偲ぶことができます。
「白石城」の施設情報です。「この施設の詳細を見る」ボタンからより詳しい投稿情報をご確認いただけます。
| 所在地 | 〒989-0251 宮城県白石市益岡町1-16 |
|---|---|
| 電話番号 | 0224-24-3030 |
| 交通アクセス | 「白石駅」下車 徒歩10分 |
| 営業時間 | 4~10月:9~17時 11~3月:9~16時 |
| 休館日 | 12月28~31日 |
| 駐車場 | 無し |
| 入場料 | 一般 400円(320円) 小学・中学・高校生 200円(160円) 未就学児童 無料 ※()内は20名以上の団体料金です。 |
| 公式サイト | http://www.shiro-f.jp/shiroishijo/index.html |
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